環境問題に取り組む人が、「意識高い系でめんどくさい奴」と見られてしまう空気が、日本にはあるようだ。
マイボトルを持ち歩く。量り売りの店で買い物をする。自然派洗剤で洗濯する。オーガニック食品を買う。ビーチクリーンに参加する。どれも本来は、ごくまっとうな行動のはずなのに、それを少しでも口にすると「意識高いね」と半ば揶揄のように言われてしまう。
この空気は、いったい何なのだろう・・・
2021年、わたしは環境問題をビジネスとして解決できないかと考え、東京都の創業支援センターに相談に行ったり、大学院のビジネススクールの科目履修生として学ぼうと出願したが、残念ながら不合格。通うことはかなわなかった。正直少し落ち込んだが、立ち止まっている時間はないと考え、その後、日経ビジネススクールが立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科と共同で開講している社会人向けの「ソーシャルデザイン集中講座」を見つけた。「社会課題をビジネスの手法で解決する」ソーシャルビジネスという分野があることをその時に知り、受講をすることにした。2021年は、パンデミックの影響でオンラインでの講座だったが、今まで知り合うことのなかった幅広い世代の方とともに学び合うことができ、とても刺激的な講座だった。
講師のひとりが、「前は、環境問題は関心がある人はどうぞ好きに活動してください、っていう感じだったし、周囲からすると、ちょっとめんどくさいヤツだな、って思われるところもありましたよね、でも今ここにきて、もうやりたい人だけやればいい、という訳にもいかなくなっている状況になってきてはいる・・・」とおっしゃった。
まったくその通りだと思う。
しかし同時に私は、どこか引っかかる感覚も覚えていた。”なんか言っている偉い人”の机上の空論、で終わってしまうと。
世界では、ESG投資が広がり、国連では「地球が沸騰している」とまで言われる時代になった。にもかかわらず、環境問題に積極的な人ほど「意識高い系」と距離を置かれる。
なぜこんなことが起きるのか。
一つは、「正論」の強さにあるのではないかと思う。
たとえば、環境負荷の観点から肉食を控えるべきだという人たちがいる。確かに畜産による環境負荷は無視できない。だが、「だから肉を食べるべきではない」と言い切られたとき、多くの人は共感よりも戸惑いを感じるだろう。実際に意識高いわたしでもだじろぐ。
「意識高い系」という言葉には、どこかでそうした“押しつけられる正論”への警戒が含まれているのではないか。
実際、環境配慮の取り組みをしている人たちの中には、「良かれと思ってやっているのに、めんどくさい人と思われる」と感じている人も少なくない。
オーガニック食品の量り売りのお店を開業する女性や、ステンレスストローを商品化して売り出した女性、リサイクル素材のスーツを身にまとったり、欧米のサステナブル素材のシューズブランドの靴を買うひと。それが数万円するような安くはない商品だとしても、エシカルな選択だとSNSで発信する。
そうした人たちが、善意で行動しているにもかかわらず、どこかで“浮いてしまう”。それは、なぜだろうか。なんかいけ好かなく見えてしまう訳は・・・わたしは、正しさを押し付けようとしているように見えたり、そこにさらに押しつけにならないようにエレガントさとオシャレさが合わさっているからだと思う。
だから、私は自分で先に言ってしまうことにした。
「すみません、私、意識高い系でめんどくさいんです」
冗談めかしてそう言うと、不思議と場がやわらぐ。
相手も構えずに、「それってどういうこと?」と聞いてくれるようになる。
環境問題を広げていくうえで必要なのは、完璧な正しさという純白なものでもエレガントでオシャレなものでもなく、ダサい人でもおしゃれな人でもみんなが取り組める妥協案を含んだ対話の余白なのかもしれない。
環境問題が広がりにくい理由は、「正しいこと」で人が動くわけではないから。さらに、オシャレにやる経済的余裕があるひとだけが浮いてしまうのは、そうではない自分たちには遠いものに見えてしまうから。
大多数のひとはおしゃれではない。
この人に言われたら共感できるなぁという、無意識の親近感や安心感なら動けるのではないか。
わたしなんぞ”環境のきく子”だなんてダサい愛称まで公表しだしたのだから、失うものはない・・・意識高い系だけどダサいからなんか親しみがもてる、そういう人になれば伝わるのかもしれない、と願って。
笑われてもいいし、ダサくてもいい。
それでも、伝わるものはきっとあると信じている。
